2011年12月30日金曜日

なんでもない冬の1日

 
 
半袖になれそうなほど暖かかったり、かといえば零下に震えたり。
このところ不安定な気候のセントルイスです。
気温が急上昇して、せっかく降った雪はあっという間に解けてしまい、
しかし翌朝の激しい寒さで、水溜りは大きな天然のスケートリンクになりました。
そこに車で乗り上げたヨメが、ハンドルを取られてくるくる回ってしまった時、
(やるやろなー)という予想に絶対背かない彼女に、目頭が熱くなった次第です。
 
スケートリンクといえば、先日はご招待をいただき、
NHL、セントルイス・ブルースの公式戦を見に行ってきました。
寛は、目の前で繰り広げられる激しい攻防と、
大好きなコットンキャンディーにご満悦です。
ピンクと青の2種類が、顔の4倍くらいある巨大な袋に入った綿菓子は、
食べたら必ず、口の中が青か赤か、ミックス色に染まります。
 
恐ろしいほどの着色ぶりを再確認したのは、翌日のこと。
「パパー!パパー!」
切羽詰ったような寛の声に呼ばれてトイレに駆けつけると、
そこには鮮やかな緑色のブツが鎮座していました。
 
ところで、僕のリハビリは大変順調です。
 
 
 
試合中に突然の紹介が。
スタンディングオベーションをいただき、感謝の気持ちでいっぱいになりました。

2011年12月24日土曜日

クリスマスイブは特別な日

 
 
日本の皆さんお元気ですか?
ようやく悪天候から抜け出したセントルイスでは、
久しぶりに太陽が顔を覗かせました。
気温は氷点下でも、時差ボケ解消には陽を浴びるのが一番。
そして、刺激的な出来事があるのも効果的です。
 
数日前のこと。
何年かぶりにアルバート(プホルス・来季からエンゼルス)と会いました。
相変わらず地に足のついた大きな子供。
彼や彼の家族の変わらない笑顔がとても嬉しくて、
どうでもいいおしゃべりがとても懐かしくて、それだけでも大いなる刺激。
さらには、
卓球勝負に燃え、
ガレージの超高級車の「エンジン音を聞かせて」とねだり、
雪かき用のバギーに二人乗りして「わーい、走って!」
アルバートを振り回すうちの息子・寛(かん)にひやひやしたおかげで、
僕の時差ぼけは強制終了です。
 
おい、お前の「わあわあ」に相手してしてくれているのは、
野球界の至宝やぞ。俺やって、見栄と人目さえなければ、
サインちょうだいと思わず言ってしまいそうな、
野球人の憧れなんやぞ。
 
と、言ってみてもなあ。
寛にとって、セントルイスは人生の大半を過ごした場所であり、
アルバートは、昔よく遊んでくれたでかいおっちゃん、に他ならないのです。
 
今日は12月24日、クリスマスイブ。
寛が、その「故郷」セントルイスで8歳になりました。
 
彼が生まれてからこれまでの間は、変化の連続で、
移動ばかりしていたから、学校や住居もころころ変わり、
友達が出来てもすぐにお別れしなければならなかった。
幼い子供には、どれだけ心と身体の負担になっていたことでしょう。
しかし、「子供が中心に回る家もある。でも、うちはパパに私たちが合わせる」と
ヨメに言い続けられてきたせいか、
「こういうもんや」と、いつの間にか、図太くたくましくなってくれました。
 
パパは現在無職や。来年もきっと波乱含みやぞ。
今の勢いで、しっかり腹くくってついて来いよ。
我が家の変化は、まだまだ終われへんでー!
 
 
友人たちが用意してくれたバースデーケーキならぬ
バースデークッキー。
 

2011年12月22日木曜日

そら大きいで、アメリカ人

ここ数日雨のセントルイスです。
西宮と変わらない寒さですが、じわっと湿ったような日本の底冷えに比べると、
こちらは耳が痛くなるような、きりっとした冷気に包まれています。
渡米してきてからしばらく経ったというのに、時差ぼけが全然取れず、
午前3時にぎらぎら目が覚める生活。
時差ぼけじゃなくて、年齢だったりして・・・。
今朝は、少しでもそんな生活から脱却するために、リズムを作るべく、
大好きなパンケーキの店に朝ごはんを食べにやってきました。
ここにある「Dutch Baby」が目当てです。
ドイツ風パンケーキで、レモンとバターと粉砂糖をかけていただきます。
バターにレモン。そしてこれでもかと粉砂糖を振り掛ける。
甘党の自分が憎い。
それにしても、一人前、でかすぎるやろ!
家族3人とはいえ、これ以外にもパンケーキつきのオムレツや
ハッシュブラウンなどをオーダーして、激しく後悔しました。
たたでさえ日中寝ぼけているというのに、
こんなに食べたら満腹で再び寝てしまいます。
以前は何の疑問もなく、これくらいの量はペロッと食べていました。
それが二年日本にいて、リセットされた胃袋で臨んでみると、
その量、カロリーにあらためてびっくりです。
ヨメが10年以上に渡るアメリカ生活において、
律儀なくらい規則正しく、年1キロずつ成長していった理由も、
大きくうなずけるというもの。現在は努力の甲斐あって元通りに
なりつつありますが、アメリカの食事に「びっくり」→「普通」→「物足りない」と
なっていったのは、ごく自然な流れだったことでしょう。
僕はしばらくセントルイスでゆっくりと身体の手入れをして、
年明けにはもう少し温かいところに移ります。
アメリカでのリハビリは、体重管理との戦いでもあります。

2011年12月14日水曜日

少しずつ

めっきり冬らしくなりましたね。皆さんお元気でお過ごしでしょうか?

年内はたぶんメールを打てまい、と思いきや、手術やリハビリの先生、看護師さんたちなど、まわりの方々のご協力のおかげで回復が早く、まずは球場ではなく、とりあえずパソコンの前に復帰いたしました。

リハビリは順調。そして、先日のとある出来事から、そのスピードは加速しつつあります。

先日用事があって、息子・寛(かん)の学校に顔を出した時のこと。クラスの子供たちにつかまってしまい、休み時間に寒空の下、校庭に引っ張り出されました。
 
アリのごとく、わらわら寄ってくる子供たち。背中や頭によじ登り始める子供たち。

「かんのパパ、遊ぼう!」

「かんのパパ、鬼ごっこしよう!」

「サッカーしよう!」

「追いかけてきて!」

小学校2年生とは、リクエストだけやたらに多く、こちらの言うことはまったく聞かない生き物です。

「おい!引っ張るな!」

「アカンアカンそこ叩いたらアカン!」

「肩!肩はやめて!肩だけは許して!」
(このままでは怪我をしてしまう。逃げなければ)

その時です。
「かんのパパ、走って!」

誰かの声に弾かれたように、僕はまだ子供が乗っかったままの状態で、走り出しました。そう、つい、うっかり。実は手術後、肩への負担を考えて、一度もランニングをしたことがなかったのです。
ところが本能的に走り出してしまったものだから、(あ、アカン走ってもーた)と気づいたのは、しばらく経ってからのことでした。

「ここで何かあったらもう終わりや」という気持ちのせいで、手術後は、恐る恐るしか動けなかったのです。でも、走れました。走っていました。気づいたら、腕を振って走っていたのです。

ただ走る、という、今まで何も考えずにやっていたことが、こんなに嬉しいとは思いませんでした。リハビリは、肉体的なダメージばかりではなく、「これからどうなるんだろう」という不安との戦いでもあります。それらをひとつひとつ拭って行くその先に、来年のシーズンがあったらどれほど素晴らしいことでしょう。

僕はまもなく渡米して、じっくりと、しっかりと身体と向き合ってきます。

また、このページに遊びにいらしてください。

次回の報告では、たぶんもっとパワーアップした田口壮をご覧いただけると思います。

2011年10月13日木曜日

ありがとうございました

皆様、大変ご無沙汰しております。

僕は現在、入院先の整形外科の病棟で、このメールを書いています。

明日、肩の手術を受けることになりました。まだ現役として野球を続けたい、その気持ちから、賭けに出ることにしました。手術をして、もとのように投げられるようになるかどうかはわかりません。
けれど、後悔のないように、でき得ることはすべてやってみたいのです。あきらめの悪い男だと笑ってやってください。しつこさには自信があります。明日からは完全に右側を固定されてしまうので、これがおそらくは、今年最後のメールです。

そして、「オリックスの田口」としても、最後のメールとなります。

最近の報道などで、皆様にはご心配をおかけし、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。同時に、シーズンで一番大切な時期にいるチームに、私事のごたごたで迷惑をかけたくない、という気持ちから、まずは黙っていよう、と決めていました。

しかし、球団側の発表と、事実があまりにかけ離れていることで、「いったい真実は何なのか」と、応援してくださる皆さんを混乱させてしまうのはあまりに失礼であると思い、自分の言葉できちんと報告すべきと、パソコンに向かった次第です。

9月の中ごろだったでしょうか。球団から「お前は来年どうしたいんだ」と聞かれ、「現役やりたいですねえ」と話したのを覚えています。「引退するんやったら、コーチとかのポストをあけるつもりはあるけどなあ」とは言われましたが、話はそれで終わりました。

そして、9月30日。「現役を続けるのであれば、うちとしては戦力外です。肩の手術も好きにしてください」と通告されました。その際、今後についての打診は一切受けていません。

さらに、「このことは黙っておいてくれるか」と。

僕は、「まわりの人に悟られてはいけない」と、その直後から普通に練習に参加しました。もはや何のために練習しているかわからない日々でした。そのうち、何人かの球団関係者から、「聞いてるよ・・・」と言われ始め、その数日後には、一部の新聞に、「戦力外通告」の記事が出ました。しかし球団は通告の事実を最後まで否定。「田口とは今後のことを話し合っている」として、第一次の戦力外通告リストには「今回は載せない」と連絡してきました。

楽天の山崎さんが胴上げされて退団した直後には、「田口も記者会見をするべきでは」と打診してくれた球団関係者もいたそうですが、クビになった選手の会見には違和感があり、実現しませんでした。

そして本日、球団が「田口が退団する」と発表しました。「慰留の上の退団」だそうです。僕は「退団」するのではありません。慰留もされていません。戦力外、クビになったのです。退団、には、「出て行きます」という本人の意思があります。しかし僕にチョイスはありませんでした。

発表が今日になった理由は、「今まで話し合いをしていた」からだそうですが、僕は後にも先にも、戦力外を告げられた9月30日以降、球団と話もしていません。「指導者としてのポジションを用意したが、本人の意思が固かった」そうですが、そんなお誘いは受けていません。

今こうしてメールを書きながら、まず残念と思うのは、こういった報告でしか皆さんにお別れができないということです。なんらはっきりした理由も告げられず二軍に落ちた日から、まさかこんな最後が来るとは思っていませんでした。

今、CSに向けて戦っている選手たちにも、これで何らかの影響を与えてしまったとしたら、それも申し訳ない限りです。

日本に帰ってきた時、オリックスからは「将来的にはチームのために」と、引退後も何かの形で関わって行ってほしい、と言われました。僕にとっても、オリックスはふるさとであり、神戸のファンと一丸になって戦った場所であり、これからも骨を埋める場所、そう信じていました。だからその言葉は本当に嬉しかった。

それが2年経って、このような形になったのは、きっと僕の力不足ゆえなのでしょう。「オリックスの田口」を応援してくださった皆さんには、ただ挨拶もなく消えていくことが申し訳なく、どうやってお詫びをしたらいいかわかりません。

本当に、ごめんなさい。

そして、心から、これまでのサポートに、感謝の気持ちを捧げます。皆さんは、熱くて優しくて、僕らといつでも一体化してくれる最高のファンでした。僕は皆さんのおかげで、励まされ、前へ進み、ここまでやってくることができました。

明日、新しい肩を手に入れて、また次の道を模索します。クビになるのは2年ぶり4回目です。甲子園の常連校並です。慣れています。

背番号6番の、33番の、やけに目のでかい選手がいたことを、心のどこかにとどめておいていただけたら、それだけで僕はうれしい。

ありがとうございました。

2011年9月5日月曜日

修学旅行の写真のような

4月。二軍スタートとなった僕は、新人たちに囲まれておりました。
プロ入りの緊張以上に、興奮と喜びで堂々としている若い選手たちは、
びびりまくっていた新人の頃の僕とはまるで違います。

どれくらいのびのびしているかというと、たとえば合宿所の風呂。
入り口のスリッパは脱ぎっぱなしでバラバラで、
それをひとつひとつ揃えるのは僕の役目です。
「ちゃんとせんかい!」と言うのは簡単ですが、叱られ慣れていない
いまどきの子供たちにとっては、鬱陶しいだけでしょう。

だから、背中を見てもらいたい。身体を丸くして、後輩たちのスリッパを
黙々と揃える僕の姿を見てほしい。そこから、
「おっさん、マメやなー」と思うのか。
「あ、ホンマはおれらがやらなアカンのやなー」と悟るのか。
それは、彼ら一人一人が持っている「資質」の差として現れます。

僕は若い選手に無理やり何かを教えたいとは、かけらも思いません。
1年目でも、20年目でも、お互いプロ。
現役である以上、チームメイト兼ライバルなのですから。
もちろん、尋ねられれば、いくらでも教えます。
しかし、押し売り教師をするほどのお人よしでもありません。

それでも。
勝つために、何かを伝えなければならないことがあります。
チーム内での細やかなルールや、プロとしての動き。
本人のためではなく、チームに迷惑がかからないように、と
正してやるのが先輩の役目です。

同時に、「オモロいな」と興味が沸いてくる選手がいます。
ちょっと、つついてみたくなる、そんな一人が、ミッツこと、三ッ俣選手です。
19歳。僕より23歳下ですから、息子と言っても過言ではない彼は、
出会った当初、「おーい」と呼びかけたら、「ふあーい?」と、
おにぎりをかじったまま振り向いたのでした。
先輩に呼ばれて、口に物を入れたまま振り向く。
ありなんですか?今風の言い方で言えば、「自分の中ではセーフ」なのでしょうか。
僕よりもむしろ、僕のまわりにいた比較的年長の選手たちを、
(こらっ!お前っ!なんちゅー態度やねん!)と
おろおろさせてしまったミッツ。しかし、野球における彼の必死さに、
僕は好感を持ちました。共に練習し、試合をしていく中で、
彼の中にある「伸びしろ」を伸ばす手伝いをしたい、と思ったのです。

だからある日、普段自分からは絶対にしない「アドバイス」をしました。
今後彼がプロとして成長するために、という願いを込めた提言。
しかしたぶん、彼にとっては「説教」でしかなかったでしょう。
僕の目をじっと見て話を聞いている最中に、
ぽろり、と大きな涙がこぼれ落ちました。

あれから数ヶ月経った今、僕は再び二軍で、夏の終わりを迎えています。
そして、ちょっと見ない間にびっくりするぐらい変化するのは、
赤ちゃんだけじゃないことを思い知らされました。
高校生のミッツが、プロの顔になっていたのです。

ドラフトされたら即プロ、とは言えません。プロには、なっていくもの。
若い選手の成長の早さとは、口をぽかんと開いてしまうほどの勢いです。
ベテランは現状維持に努めることが精一杯で、精神的にはともかく、
肉体的、技術的な成長に、目を見張るような変化は見られません。
でも、若い選手は違う。これが若さなのかと感動させられます。
42歳の僕が同じように変化しようとしたら、
身体がついていかずに、一瞬で怪我をしてしまうでしょう。

この驚きは、実に愉快です。
見ていて、痛快なものです。
あの日、「(思うように動けない)自分が悔しいです」と涙をぬぐったミッツは、
僕の言葉を意地悪や説教ではなく、好意として受け入れてくれました。

そして、ミッツの隣で微笑んでいる駿太。彼に関しては、現在まじまじ研究中です。
何しろ4月に彼は一軍だったので、僕とは入れ違い、今回初めて
マトモにゲームを見せてもらっています。またこのブログで彼の活躍を
お伝えする日も近いことでしょう。

野球には、誰かの成長に目を見張るという楽しみもあったんですね。
それとも、自分以外に目が向くようになったのは、僕自身の成長と捕らえても
いいのでしょうか。


山口県の由宇に移動してきました。バスから素振り用のバットを一本取り出して、
宿にチェックインする駿太とミッツ。
こんなにあどけない笑顔も、グラウンドではすっかりプロの表情です。



2011年8月11日木曜日

ときどき壊れます

先日、尼崎青年会議所の方々とご一緒する機会がありました。
その時、いただいたのがこれ。













水飴です。懐かしいのです。うれしいのです。
人情と情緒あふれる関西の下町、尼崎。
地元の人たちは、謙遜と誇りを込めて、「アマ」(マ、にアクセント)と呼びます。
「尼からの贈り物」と題された数々の名産品のひとつであるこの水飴は、
あまりの人気に生産が間に合わず、なかなか手に入らない逸品だとか。


早速「ねりねり」してみました。



やりませんでしたか?子供の頃。
透明の水飴を割り箸につけて練っているうちに、
空気が入ってどんどん白くなるのです。
この水飴はうっすらと茶色く、練っても白くはなりません。
でも、やっぱり「ねりねり」はお約束ですから。





夢中になって練っているうちに、
心はどんどん童心に戻って行って、
「打ったるで~」と水飴バットを構えたくなりました。





試合の後だというのに、
真夜中だというのに、
こんなにハイテンション。

たぶん、疲れとんなー。