2012年1月7日土曜日

何を勉強しに行ったんや・・・


3日間の予定で、アリゾナ・ダイヤモンドバックス主催の
少年野球教室が開催され、不肖の息子が参加しました。
日本で地元小学校の野球部に所属する寛にとって、
アメリカの野球少年たちと交流するのは初めてのこと。
僕自身にとっても、海外で少年野球の指導現場に立ち会うのは
新鮮かつ大変勉強になる経験で、バックネット裏からじっくり見学させてもらいました。

子供に野球を教える時に僕がいつも心がけているのは、
「子供には物を考えさせない」ということ。
なるべく何も考えさせず、本能で、リラックスした状態で動かしてあげれば、
その子の持つ一番いい力が出やすい、という思いからです。

「こうしてみたら」「ああしてみたら」と指示した途端、子供は頭の中で
考え込んで、ロボットのようにぎくしゃく動き始め、もともと自分がどう動いていたかを
忘れてしまいます。緊張していると、行進しながら同じ側の手脚が
同時に出てしまうような、あんな感じ。

もとプロのコーチたちが教えるアメリカ野球は遊び心にあふれ、
寛がこの経験から何を得てくれるのかと、とても楽しみになって、
初日は終了しました。

そして2日目の朝。
バットケースに開いていた穴に興味を持った寛は、
何気なく右の人差し指を入れてしまい、しかも抜けなくなり、
それを無理に引き抜いた結果、第二関節のまわり全体が、
深くえぐり取れてしまいました。
出血も腫れもかなりひどかったため、そのまま救急へ。
利き手ではなく、骨にも異常なかったものの、
その日の練習参加は不可能となり、当面のプールすら禁止となってしまいました。

子供は、紐が垂れていれば引っ張り、
ボタンがあれば押してみて、
ハトが群れていれば、追い散らす。
そして、穴が開いていたら、指を入れてみる。

僕が「子供は考えないのが一番」などと言った矢先に、
「何かする前にまず考える」のが、
皮肉なことに、寛が今回の野球キャンプで得た、
一番の教訓となってしまいました。 

グローブはできないけれど、バットは握れる!と右手人差し指をぐるぐる巻きに固定して、
最終日の練習には無理矢理参加。


2012年1月4日水曜日

スパルタなんです

 
 
年末年始、いかがお過ごしですか?
僕は年明けすぐに、氷点下のセントルイスを離れ、
暖かいアリゾナに移動してきました。
十年来お世話になっているトレーニング施設で、リハビリ続行中です。
 
これまでは「どうなってしまうんやろう」という不安との戦いだった肩の状態も、
このところ「なんだかいい感じやなー」に変わって来ました。
すると人間欲が出るもので、
「いつから投げられるんやろう」
「そろそろ違うことをしてみようか」と、
焦りとはまた違う、先走る気持がわいてくるのです。
 
これもまた、リハビリのもうひとつの戦い。
じっくり、ゆっくり、丁寧に行かなければ、
これまでの我慢が無になってしまいます。
 
夜明けとともに起き出して、暗いうちから動いているので、
トレーナーさんとのリハビリは、だいたい午前中で終了します。
だから午後はプールを利用して、寛と遊びながら、筋肉をゆったり動かすトレーニング。
 
カナヅチの僕は、学校の水泳の時間が苦痛でした。
でも、ただゆらゆらのんびり入っていればいいというのであれば、水の中は嫌いじゃありません。
しかし、体力と時間の余り余った8歳児にとって、このプールは遊びではなく、
本気なのです。
 
「パパっ!あっちまで競争!」
「パパっ!もっと脚動かして!」
「勘弁してくれえっ!」
 
ちらっと30分くらい入るつもりが、3時間ぶっ通しの動きっぱなしってどないやねん?
このままでは、投げられるようになる前に、泳げるようになってしまう・・・。
 

疲労の色濃い僕。まだまだこれからの寛。

 
 
 
 

2011年12月30日金曜日

なんでもない冬の1日

 
 
半袖になれそうなほど暖かかったり、かといえば零下に震えたり。
このところ不安定な気候のセントルイスです。
気温が急上昇して、せっかく降った雪はあっという間に解けてしまい、
しかし翌朝の激しい寒さで、水溜りは大きな天然のスケートリンクになりました。
そこに車で乗り上げたヨメが、ハンドルを取られてくるくる回ってしまった時、
(やるやろなー)という予想に絶対背かない彼女に、目頭が熱くなった次第です。
 
スケートリンクといえば、先日はご招待をいただき、
NHL、セントルイス・ブルースの公式戦を見に行ってきました。
寛は、目の前で繰り広げられる激しい攻防と、
大好きなコットンキャンディーにご満悦です。
ピンクと青の2種類が、顔の4倍くらいある巨大な袋に入った綿菓子は、
食べたら必ず、口の中が青か赤か、ミックス色に染まります。
 
恐ろしいほどの着色ぶりを再確認したのは、翌日のこと。
「パパー!パパー!」
切羽詰ったような寛の声に呼ばれてトイレに駆けつけると、
そこには鮮やかな緑色のブツが鎮座していました。
 
ところで、僕のリハビリは大変順調です。
 
 
 
試合中に突然の紹介が。
スタンディングオベーションをいただき、感謝の気持ちでいっぱいになりました。

2011年12月24日土曜日

クリスマスイブは特別な日

 
 
日本の皆さんお元気ですか?
ようやく悪天候から抜け出したセントルイスでは、
久しぶりに太陽が顔を覗かせました。
気温は氷点下でも、時差ボケ解消には陽を浴びるのが一番。
そして、刺激的な出来事があるのも効果的です。
 
数日前のこと。
何年かぶりにアルバート(プホルス・来季からエンゼルス)と会いました。
相変わらず地に足のついた大きな子供。
彼や彼の家族の変わらない笑顔がとても嬉しくて、
どうでもいいおしゃべりがとても懐かしくて、それだけでも大いなる刺激。
さらには、
卓球勝負に燃え、
ガレージの超高級車の「エンジン音を聞かせて」とねだり、
雪かき用のバギーに二人乗りして「わーい、走って!」
アルバートを振り回すうちの息子・寛(かん)にひやひやしたおかげで、
僕の時差ぼけは強制終了です。
 
おい、お前の「わあわあ」に相手してしてくれているのは、
野球界の至宝やぞ。俺やって、見栄と人目さえなければ、
サインちょうだいと思わず言ってしまいそうな、
野球人の憧れなんやぞ。
 
と、言ってみてもなあ。
寛にとって、セントルイスは人生の大半を過ごした場所であり、
アルバートは、昔よく遊んでくれたでかいおっちゃん、に他ならないのです。
 
今日は12月24日、クリスマスイブ。
寛が、その「故郷」セントルイスで8歳になりました。
 
彼が生まれてからこれまでの間は、変化の連続で、
移動ばかりしていたから、学校や住居もころころ変わり、
友達が出来てもすぐにお別れしなければならなかった。
幼い子供には、どれだけ心と身体の負担になっていたことでしょう。
しかし、「子供が中心に回る家もある。でも、うちはパパに私たちが合わせる」と
ヨメに言い続けられてきたせいか、
「こういうもんや」と、いつの間にか、図太くたくましくなってくれました。
 
パパは現在無職や。来年もきっと波乱含みやぞ。
今の勢いで、しっかり腹くくってついて来いよ。
我が家の変化は、まだまだ終われへんでー!
 
 
友人たちが用意してくれたバースデーケーキならぬ
バースデークッキー。
 

2011年12月22日木曜日

そら大きいで、アメリカ人

ここ数日雨のセントルイスです。
西宮と変わらない寒さですが、じわっと湿ったような日本の底冷えに比べると、
こちらは耳が痛くなるような、きりっとした冷気に包まれています。
渡米してきてからしばらく経ったというのに、時差ぼけが全然取れず、
午前3時にぎらぎら目が覚める生活。
時差ぼけじゃなくて、年齢だったりして・・・。
今朝は、少しでもそんな生活から脱却するために、リズムを作るべく、
大好きなパンケーキの店に朝ごはんを食べにやってきました。
ここにある「Dutch Baby」が目当てです。
ドイツ風パンケーキで、レモンとバターと粉砂糖をかけていただきます。
バターにレモン。そしてこれでもかと粉砂糖を振り掛ける。
甘党の自分が憎い。
それにしても、一人前、でかすぎるやろ!
家族3人とはいえ、これ以外にもパンケーキつきのオムレツや
ハッシュブラウンなどをオーダーして、激しく後悔しました。
たたでさえ日中寝ぼけているというのに、
こんなに食べたら満腹で再び寝てしまいます。
以前は何の疑問もなく、これくらいの量はペロッと食べていました。
それが二年日本にいて、リセットされた胃袋で臨んでみると、
その量、カロリーにあらためてびっくりです。
ヨメが10年以上に渡るアメリカ生活において、
律儀なくらい規則正しく、年1キロずつ成長していった理由も、
大きくうなずけるというもの。現在は努力の甲斐あって元通りに
なりつつありますが、アメリカの食事に「びっくり」→「普通」→「物足りない」と
なっていったのは、ごく自然な流れだったことでしょう。
僕はしばらくセントルイスでゆっくりと身体の手入れをして、
年明けにはもう少し温かいところに移ります。
アメリカでのリハビリは、体重管理との戦いでもあります。

2011年12月14日水曜日

少しずつ

めっきり冬らしくなりましたね。皆さんお元気でお過ごしでしょうか?

年内はたぶんメールを打てまい、と思いきや、手術やリハビリの先生、看護師さんたちなど、まわりの方々のご協力のおかげで回復が早く、まずは球場ではなく、とりあえずパソコンの前に復帰いたしました。

リハビリは順調。そして、先日のとある出来事から、そのスピードは加速しつつあります。

先日用事があって、息子・寛(かん)の学校に顔を出した時のこと。クラスの子供たちにつかまってしまい、休み時間に寒空の下、校庭に引っ張り出されました。
 
アリのごとく、わらわら寄ってくる子供たち。背中や頭によじ登り始める子供たち。

「かんのパパ、遊ぼう!」

「かんのパパ、鬼ごっこしよう!」

「サッカーしよう!」

「追いかけてきて!」

小学校2年生とは、リクエストだけやたらに多く、こちらの言うことはまったく聞かない生き物です。

「おい!引っ張るな!」

「アカンアカンそこ叩いたらアカン!」

「肩!肩はやめて!肩だけは許して!」
(このままでは怪我をしてしまう。逃げなければ)

その時です。
「かんのパパ、走って!」

誰かの声に弾かれたように、僕はまだ子供が乗っかったままの状態で、走り出しました。そう、つい、うっかり。実は手術後、肩への負担を考えて、一度もランニングをしたことがなかったのです。
ところが本能的に走り出してしまったものだから、(あ、アカン走ってもーた)と気づいたのは、しばらく経ってからのことでした。

「ここで何かあったらもう終わりや」という気持ちのせいで、手術後は、恐る恐るしか動けなかったのです。でも、走れました。走っていました。気づいたら、腕を振って走っていたのです。

ただ走る、という、今まで何も考えずにやっていたことが、こんなに嬉しいとは思いませんでした。リハビリは、肉体的なダメージばかりではなく、「これからどうなるんだろう」という不安との戦いでもあります。それらをひとつひとつ拭って行くその先に、来年のシーズンがあったらどれほど素晴らしいことでしょう。

僕はまもなく渡米して、じっくりと、しっかりと身体と向き合ってきます。

また、このページに遊びにいらしてください。

次回の報告では、たぶんもっとパワーアップした田口壮をご覧いただけると思います。

2011年10月13日木曜日

ありがとうございました

皆様、大変ご無沙汰しております。

僕は現在、入院先の整形外科の病棟で、このメールを書いています。

明日、肩の手術を受けることになりました。まだ現役として野球を続けたい、その気持ちから、賭けに出ることにしました。手術をして、もとのように投げられるようになるかどうかはわかりません。
けれど、後悔のないように、でき得ることはすべてやってみたいのです。あきらめの悪い男だと笑ってやってください。しつこさには自信があります。明日からは完全に右側を固定されてしまうので、これがおそらくは、今年最後のメールです。

そして、「オリックスの田口」としても、最後のメールとなります。

最近の報道などで、皆様にはご心配をおかけし、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。同時に、シーズンで一番大切な時期にいるチームに、私事のごたごたで迷惑をかけたくない、という気持ちから、まずは黙っていよう、と決めていました。

しかし、球団側の発表と、事実があまりにかけ離れていることで、「いったい真実は何なのか」と、応援してくださる皆さんを混乱させてしまうのはあまりに失礼であると思い、自分の言葉できちんと報告すべきと、パソコンに向かった次第です。

9月の中ごろだったでしょうか。球団から「お前は来年どうしたいんだ」と聞かれ、「現役やりたいですねえ」と話したのを覚えています。「引退するんやったら、コーチとかのポストをあけるつもりはあるけどなあ」とは言われましたが、話はそれで終わりました。

そして、9月30日。「現役を続けるのであれば、うちとしては戦力外です。肩の手術も好きにしてください」と通告されました。その際、今後についての打診は一切受けていません。

さらに、「このことは黙っておいてくれるか」と。

僕は、「まわりの人に悟られてはいけない」と、その直後から普通に練習に参加しました。もはや何のために練習しているかわからない日々でした。そのうち、何人かの球団関係者から、「聞いてるよ・・・」と言われ始め、その数日後には、一部の新聞に、「戦力外通告」の記事が出ました。しかし球団は通告の事実を最後まで否定。「田口とは今後のことを話し合っている」として、第一次の戦力外通告リストには「今回は載せない」と連絡してきました。

楽天の山崎さんが胴上げされて退団した直後には、「田口も記者会見をするべきでは」と打診してくれた球団関係者もいたそうですが、クビになった選手の会見には違和感があり、実現しませんでした。

そして本日、球団が「田口が退団する」と発表しました。「慰留の上の退団」だそうです。僕は「退団」するのではありません。慰留もされていません。戦力外、クビになったのです。退団、には、「出て行きます」という本人の意思があります。しかし僕にチョイスはありませんでした。

発表が今日になった理由は、「今まで話し合いをしていた」からだそうですが、僕は後にも先にも、戦力外を告げられた9月30日以降、球団と話もしていません。「指導者としてのポジションを用意したが、本人の意思が固かった」そうですが、そんなお誘いは受けていません。

今こうしてメールを書きながら、まず残念と思うのは、こういった報告でしか皆さんにお別れができないということです。なんらはっきりした理由も告げられず二軍に落ちた日から、まさかこんな最後が来るとは思っていませんでした。

今、CSに向けて戦っている選手たちにも、これで何らかの影響を与えてしまったとしたら、それも申し訳ない限りです。

日本に帰ってきた時、オリックスからは「将来的にはチームのために」と、引退後も何かの形で関わって行ってほしい、と言われました。僕にとっても、オリックスはふるさとであり、神戸のファンと一丸になって戦った場所であり、これからも骨を埋める場所、そう信じていました。だからその言葉は本当に嬉しかった。

それが2年経って、このような形になったのは、きっと僕の力不足ゆえなのでしょう。「オリックスの田口」を応援してくださった皆さんには、ただ挨拶もなく消えていくことが申し訳なく、どうやってお詫びをしたらいいかわかりません。

本当に、ごめんなさい。

そして、心から、これまでのサポートに、感謝の気持ちを捧げます。皆さんは、熱くて優しくて、僕らといつでも一体化してくれる最高のファンでした。僕は皆さんのおかげで、励まされ、前へ進み、ここまでやってくることができました。

明日、新しい肩を手に入れて、また次の道を模索します。クビになるのは2年ぶり4回目です。甲子園の常連校並です。慣れています。

背番号6番の、33番の、やけに目のでかい選手がいたことを、心のどこかにとどめておいていただけたら、それだけで僕はうれしい。

ありがとうございました。